読売新聞の日曜版は本を紹介するコーナーがある。
その中で小説家の小川洋子さんが、この本を紹介されていた。
記事の内容は全く覚えていないのだが、どうやら暗い内容の本だろうという事は分かった。
読んだ本
タイトル:ガラスの動物園
作者:テネシーウィリアムズ
訳者:小田島雄志
出版元:新潮社
この本との出会い
作者のテネシーウィリアムズと言う名前の響きにも何故か聞き覚えがある。
ずっと前から知っているような気がしている。
彼の名前を聞く度に60年代のアメリカを連想してしまう。
(作者が本作品で成功を収めたのは1944年のアメリカだったのだが)
決まって黄色みの強いセピア色で、夕暮れの草原。
大きなゆったりとした流れの川が流れている。
テネシーウィスキーが影響しているのだろうか?
セピア色だから・・・。
人の潜在意識は不思議なモノだ。
そんな訳の分からない理由が、この本との出会いである。
先に言っておくがこの本は小説ではない。
所々で語りと舞台セットの説明分が入るが、基本的に登場人物のセリフが箇条書きになった戯曲だ。
今年(2022年)の1月に博多座にこの戯曲公演があった。
知ったのが遅すぎて行きそびれたのだが、行くべきだったと後悔している。
小説を題材にした劇を見た事はあるが、戯曲そのものを公演されている劇を見た事がない。
小説なら全体の話の流れは掴んではいても、実際の演者さんや舞台セットで、予想を超えるか期待外れになる。
戯曲の場合、自分のピントがどれだけ作者と重なっているか確認できる。
作者との時空を超えた共感と言うのだろうか、自分が作り上げた世界観がどれくらい正しかったのか確かめることが出来る気がする。
またそのズレを感じる事で、新たな発見が隠されているとも思う。
私の感想
本作品に話を戻そう。
登場人物は4人。
主人公で語り役のトム、その母親アマンダ、姉のローラ、そして友人で青年紳士と言う設定のジム。
まずこの話はトムの追憶と言う形で始まる。
そしてトムは作者自身を描いているようだ。
母親のアマンダは一見普通のおしゃべり上手な社交的な夫人の雰囲気だが、作者の登場人物の設定には生活が妄想狂的であると言う事だ。
非常に興味深い女性に思えた。
この物語をより深い暗闇に押しやる為に彼女の存在は明るく現実的であるかのように思える。
姉ローラは足に障害を持っており、悲観的に生きる娘をどうにかその他大多数の娘たちの様に普通に生きて行って欲しいと願っている。
トムにしてみたら、経済的に自分に依存している母と姉の存在が重荷に感じているのが悲しいほど伝わってくる。
工場勤めと月給65ドルの人生は、彼の思い描いた生活ではないのだ。
姉ローラの心情を映し出すものは言葉ではなく彼女のコレクションだったと思う。
ガラス細工の小さな動物たち。
作中何度かこのコレクションが壊れる場面があるが、作者の家族と言うものを比喩的に表していたのかもしれない。
しかし修復不可能と言うほど決定的に壊れてしまったという場面がなかったのが、私には意外に思えた。
それよりもこの物語が初めから追憶と言う形で始まる事に悲しみが一層深まる。
トムの思い出の中の母と姉は壊れもしないまま、生き続けて悲しみは続くのだ。
そして後半に出てくるジムの存在。
彼の存在はこの閉鎖的な家族の中に突如現れた新しい未来で、開かれた世界への扉なのだろう。
しかし妄想狂的な母の生活に終止符を打つ事になったのだろうか。
現実は味気なく自己責任で生きる事を再確認させられる。
そんなに甘い話はないし、誰かに依存して生き続ける事は出来ないのだ。
きっとアマンダは分かっていないだろう。
家族は支えあって生きていくものだと言う前提の考え方があるからだ。
この辺の感覚は現代の日本人の生活とも共有できるのではないか。
例えば、独身の引きこもり中年と、老親の家庭。
親からすれば、心配の種を死後にまで引きずりたくはないはずだ。
独身の引きこもり中年からすると、将来の生活の不安が現実味を増してくる。
どうしようもない暗闇を終わらせるように、蠟燭の火を吹き消すローラの一息で幕は閉じるのだ。
光が見いだせないままに悲しいものは悲しいままに追憶は自分を逃さないと言う現実を感じた。
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